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永瀬清子さんの「あけがたにくる人よ」- 3 -(対話バージョン)


永瀬清子さんの名詩「あけがたにくる人よ」を読むブログの3回目です。百合子さんとのやり取りを続けますね。どうぞお付き合いくださいませ(^^)



M:そう!ながこさんは、最後の連でも、「あけがたにくる人よ ててっぽっぽうの声のする方から」って語っていますね。それに続く語りはどうでしょう?


Y:「あ、同じ」と思ったのですが、しっかり観察したら、少しだけ違いました。

一連目では、「私の所へしずかにしずかにくる人よ」なのですが、五連目では、「私の方へしずかにしずかにくる人よ」。「私の所へ」が「私の方へ」になっています。


M:百合子さん、しっかり観察なさいましたね(^^)

ながこさんは、五連目では、「私の所へ」と語らずに、「私の方へ」と語りました。なぜ変えたんでしょうね?この二つはどう違うのかしら?


Y:…「私の所へ」と「私の方へ」とを比較すると、「私の所へ」と語ったときには「私」の姿がくっきりはっきり見えて、「私の方へ」と語ったときには「私」の姿がぼんやりする気がします。


M:わたしも百合子さんと同じように感じました。「私の所へ」という言葉を発したときに、ながこさんは、自分の姿…今現在の年老いた自分の姿を、強く意識したのかもしれませんね。


Y:きっとそうだと思います。なんだかやるせない気持ちになります…


M:どうして?


Y:だって…「あけがたにくる人」は若いままなんでしょうから、自分だけが老人になっているのは、つらいというか、悲しいというか、嫌だなというか…


Y:そうですね。ながこさんは、心中穏やかではいられない…かもしれませんね。


M:そりゃそうだと思います。「あけがたにくる人」は、青年の姿でやってくるのでしょう⁈ それなのに、自分はもう乙女ではない。心が騒いで落ち着きません。


M:それで、ながこさんは、どうしたのでしょう?


Y:えっ?ながこさんがどうしたか…ですか?


M:心が騒いで落ち着かないのならば、なんとかして落ち着こうとするのではないかしら。


Y:たしかに…そうですね。なんとかして、自分の老いた姿と折り合いをつけようとするのでは…


M:わたしもそう思います。年老いた自分を、なんとか受け入れようとするのではないでしょうか。それで、ながこさんは、なにをしましたか?


Y:え? 

ながこさん、なにをしたんだろう…


M:わたしたちに与えられた手がかりは、ながこさんの語りだけですから、ながこさんの語りを観察しましょうね。

「一生の山坂は蒼くたとえようもなくきびしく 私はいま老いてしまって」


Y:あ、自分の一生を振り返ってる…


M:そうですね!

自分の人生を振り返ってみたら、いまの老いた姿を受け入れることができるかも…。どうでしょう?ながこさんの思考の流れに、寄り添える気がしませんか?


Y:なんとなくわかります。わたし、ながこさんの気持ちを理解できる気がします。


M:わたしも寄り添える気がするんです。自分の人生を振り返ってみて、ながこさんは、どんな体験をしたのでしょうか。

それでは具体的に、「一生の山坂は蒼くたとえようもなくきびしく」という語りの観察・推察を進めてまいりましょう。

ながこさんは、自分の一生を振り返って、なにを見たんでしょう?


Y:なにを見たか…ですか?


M:そう。ながこさんに見えている記憶の景色は、どんなものなのでしょう?…平坦な道でしょうか?


Y:いえ、きびしい道だと思います。


M:手がかりは、ながこさんの言葉でしたね。「一生の山坂は蒼く」という言葉は、なにを見ると生まれる言葉なのでしょうか?


Y:…あ、山と坂、ですね!

そして、その色合いは蒼い。え?どうして青いじゃないんだろう?


M:百合子さん、いい問いも生まれましたね!

ながこさんは、自分の一生を振り返ったとき、険しい山や険しい坂が見えたんでしょうね。そして、その山坂は、蒼く染まっている…

辞書で調べてみると…蒼は、目立たない色を表していて、そこには灰色も含まれていたようですね。


Y:ながこさんに見えたのは、さわやかな、スカッとした青とは違ったんですね。


M:違ったんでしょうね。自分の一生を振り返ったとき、ながこさんに見えてきた記憶の中の景色は…道端にかわいいお花が咲いている穏やかで平坦な道などではなくて、険しい山道や坂道で、その山坂は、草木の生き生きとした生命力あふれる青色ではなく、明度も彩度も低いくすんだ色合いの蒼色に見えた。だから、ながこさんは、「一生の山坂は蒼く」と語ったのでしょうね。


Y:ながこさんに見えている景色が、わたしにも見えてきた気がします。


M:たいへんな人生だったんでしょうね。

ながこさんは、その山坂を生きるきびしさを、他の言葉でたとえようとしたのでしょう。でも、言葉は見つからなかった…


Y:そうか。それで結局、「たとえようもなくきびしく」という言葉が生まれたんですね。


M:そうなんでしょうね。

苛酷な人生を振り返ってみて、ながこさんはどのように感じたのでしょうね…。よくぞ生き抜いた。そんな感慨もあったかもしれませんね。そりゃあこの道を歩いてきたら老いるわよ…と、思ったかも。


Y:その思いが、「私はいま老いてしまって」という語りに繋がるんですね。


M:そうですね。ながこさんは自分の老いに言及していますね。


Y:恋人から、「老いたね」と指摘される前に、自分から、自分の老いを告白したようなかたちでしょうか。


M:ええ。「私はいま老いてしまって」という語りの向こうには、苛酷な人生を生き抜いてきたながこさんの誇りやら納得やら諦めやら悟りやら…いろいろな思いが透けて見えるようですね。


Y:はい。凄まじい人生だったかもしれないけれど、ながこさんは、その人生を生き抜いたんですね。


M:それって、すごいことですよね。ながこさんは、自分の人生を振り返ることで、いまの老いた自分を受け入れることができたのかもしれませんね…

さあ、続けましょう。「私はいま老いてしまって」と語ったながこさんから、次に、「ほかの年寄りと同じに」という言葉が生まれました。ながこさんは、どんな体験をしたのでしょう?


Y:どんな体験だろう?ながこさんは、どんなふうに五感を使っているのかしら…?

あ、「私はいま老いてしまって」と語るとき、ながこさんの目は、自分を見ていますよね。

その目を、今度は、外の世界に向けたのではないでしょうか。すると、ほかの年寄りが見えたのでは?


M:わたしもそう思います。ながこさんは、周囲を見回したのかもしれませんね。そして、「私はいま老いてしまって」と語ったながこさんの感受性のアンテナは、“老い”の目盛りを指し示していたから、しぜんに“老い”を探し出したのかもしれませんね。


Y:そうか…ながこさんの“老い”のアンテナが、他の老人たちを見つけて、「ほかの年寄り」という言葉が生まれたんですね、すごくわかります。アンテナが立つと集まってくる感じ。

それにしても、「ほかの年寄りと同じに」の「同じに」って、なにが同じなんでしょう?


M:「ほかの年寄り」の、物思いに耽っているような、過去に生きているような、不活発というか、行動的ではない姿を目にして、自分と同じだわ、と感じたのではないかしら。


Y:たしかに。ながこさんの“老い”のアンテナは、活発に動き回っている人をキャッチしないだろうなって思います。


M:わたしたちは、他者が、何を思っているか、何を考えているか、すっかり知ることは叶いませんが、次の「若かった日のことを千万遍恋うている」という語りから、ながこさんの思考を感じ取ることはできそうですね。


Y:ながこさんは、若かった日のことを思い出しています。いい表情をしているように感じます。美しい思い出なのかな…


M:どうして百合子さんはそう感じるのでしょう?


Y:んー…、二連目を読むと…


M:二連目に進む前に、まず、この語り「若かった日のことを千万遍恋うている」を手がかりにして、考えてみましょうか(^^)


Y:…あ、ながこさんは、「恋うている」からです!それも「千万遍」!


M:そうですね。「思っている」でも「思い出している」でも「考えている」でもなく、「恋うている」んですね。「千万遍」も!

この語りが生まれるとき、ながこさんが見ている記憶の景色は、明るい色彩あふれるものなのでしょうね♪いい表情になりそう。


Y:そうですよね。一生を振り返ったときには、蒼くて険しい山と坂だったけれど、今度は、若かったころ限定で、ながこさんは楽しい景色を見ているんですよね。


M:楽しい景色、そうですね。では、そのイメージを、「千万遍恋う」体験に繋がるように、具体的に言葉にしてみましょうか♪


Y:乙女のながこさんを、わたしがイメージしていいんですか?


M:わたしたちは、ながこさんを理解したくて、ながこさんがどんな体験をしているのかを推察しています。

ながこさんの体験を知る手がかりは?


Y:手がかりは…ながこさんの語り。


M:その通り。「若かった日のことを千万遍恋うている」という語りが、わたしたちの手がかりです。

どのような体験をしたら、この語りが生まれてくるんだろう…そう考えるといいですね。


Y:えーっと…「千万遍恋うている」という行動に繋がるような、魅力いっぱいでキラキラ輝いている「若かった日のこと」を、ながこさんは、想像の目ではっきりと見る…という体験をしている!


M:そうですね!

何度も何度も見たいと思ってしまうような「若かった日」のイメージを、わたしたちも、想像の目ではっきりと見ることができたなら、「若かった日のことを千万遍恋うている」という語りが、自然に、自分から、生まれてきそうですね♪


Y:何度も何度も見たいと思ってしまうようなイメージですよね。…きめ細やかな肌、艶やかな黒髪。瞳はキラキラ光っていて、フリルのついた丸襟の真っ白なブラウス。ああ、笑顔が眩しいです。もの思いに耽る姿も可憐…


M:そうそう、一つのシーンだけではなくて、いくつものシーンを見ましょうね。その中に、家出したワンシーンもあるんでしょう。そのワンシーンを選び出して、「その時私は家出しようとして」という次の語りが生まれたのでしょうね。


Y:若かった日の、いくつもの幸せな光景の中のワンシーンが、続く二連目で語られるんですね。


M:そのようですね♪

さて。わたしたちは、一連目の語りを観察してきました。

呼びかけに始まり、自分の人生と向き合い、外の世界に目をやった後、「若かった日」を恋う自分自身を見る。ながこさんは、そんな体験をしていました。

観察と推察とともに、朗読をしましょう。わたしたちは、自分の身体を使って、ながこさんと同じ体験を試みましょう。ながこさんと同じ体験をすることができると、自分から、ながこさんと同じ言葉が生まれてくるかもしれませんね(^^♪

同じ言葉が生まれてこないときは、(なぜ違うんだろう)って、また問いが生まれます。問いは、思考を誘ってくれますね。わたしたちの脳は、どんどん耕されます。

問いが生まれるのは、ながこさんに対する理解が深まるチャンスです!ラッキーと思って愉しみましょうね🎶




★★★わたしたち朗読者が、ながこさんを理解する手がかりは、ながこさんの語りだけです。ながこさんの語りを、ていねいに観察し、推察を愉しんで、同じ体験を試みる(=朗読する)ことで、ながこさんに対する理解は、少しずつ、着実に、深まっていきます。ラストの「涙流させにだけくる人よ」と語ったながこさんの心情に、わたしたちも、行き着けるでしょうか。初めての心情に出逢えたなら…なんて素敵な文学体験でしょう(^^♪ ★★★

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