朗読を通して文学体験の悦びを味わいませんか♪
- marikoroudoku
- 2 日前
- 読了時間: 2分

私たちが対象とする短編小説や詩は、声を与えることで完成する「台本」ではありません。その言葉たちは、すでに音声を内に宿しています。したがって、「音声を与えよう」とか「声で表現しよう」とかするのではなく、体験することに集中しましょう♪
ところで。「朗読家」のAIによる概要は、現時点で以下のようにまとめられています↓
【朗読家は、詩歌や文章などの作品を読み上げ、鑑賞や批評を行う人のことを指します。朗読には、読み手の解釈や感情が加味されることで、聴き手の五感を刺激し、新たな想像の世界を創り出す魅力があります。(以下略)】
この定義には、やや誤解を生む表現が含まれているのかもしれません。「読み上げ」るという言い回しからは、文字を見ている姿を思い浮かべないでしょうか。朗読家は、文字を見てはいません。目の使い方が違います。朗読家は、作品世界を見ています。語り手と同じものを見ようとしています。
朗読家は、小説や詩の言葉が促すように「文学体験」をしているのです。音声は、体験とともに言葉が生まれる際に、ついてきています。文字を読み上げているのでもなければ、言葉をどのように表現しようかと考えて声を出しているのでもありません。声は自然に出ているのです。
AI概要にある「聴き手」という言葉も誤解を招きそうです。「五感に刺激を受けて新たな想像世界を創り出すことのできる聴き手」とは、一般的に思われているような「音声だけで作品を受け取ろうとする聴き手」ではありません。自ら作品世界を体験した朗読者が聴き手となったときに、豊かな可能性が拓かれるのでしょう。
小説や詩は「文字で」受け取るもの。文字で受け取るというのは、時間をかけるということです。立ちどまり、思いを巡らせ、行きつ戻りつし、思考を重ねる…そのように読むことを求められます。なぜなら、語り手が(読者とともに)創ろうとする虚構の作品世界は、それほど豊かで、そして、奥深いから。
(小説や詩の)語り手は、言葉を、音声で聴き手に届けようとしてはいませんよ。朗読は、語り芸のように、現実世界のなかに虚構世界をつくり出し、現実世界にいる聴き手に手渡すものではないのです。音声で届けることも受け取ることもできない小説や詩は、音声表現の台本にするのではなく、朗読を通して「文学体験の悦び」を皆で享受したいですね。
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