朗読ってなんだろう?と思ったことのある方へ…「創意工夫した音読」じゃない。朗読はもっとずっとたのしい!
- marikoroudoku
- 5月21日
- 読了時間: 3分
更新日:5月22日

私はかつて、「朗読」とは、自分の解釈を反映させた読み上げ行為だと思っていました。けれど、いまならはっきり言えます。「語り手」に寄り添う本来の朗読は、それよりずっと自由で、ずっとたのしい営みです。
そもそも、日本の物語に「語り手」という概念が明確に登場したのは、実はそれほど古いことではありません。
たとえば『竹取物語』や『源氏物語』『平家物語』『南総里見八犬伝』などでは、語る主体が明示されておらず、物語は出来事や事件の連なりとして語られていました。だからこそ、琵琶法師や講談師のように、語り手の役割を朗読者が担うことも可能だったのです。
ところが明治時代になると、西洋小説の影響を受けて、日本文学にも「語り手」という存在を意識する動きが生まれます。坪内逍遥は『小説神髄』でその理論的枠組みを示し、二葉亭四迷は『浮雲』でその実践を試みました。語り手は虚構世界に生きる独立した存在として描かれるようになり、小説の言葉も、「出来事を伝える道具」から「(語り手の)体験とともに生まれるもの」へと変化していきました。
これは朗読にとって、大きな転換点でした。語り手が独立した以上、読み手が簡単にその役を引き受けることはできなくなったのです。こうして、声に出して読む朗読は次第に衰退し、読者が黙読で作品と向き合う時代が始まりました。
その後、教育の現場では、「音読」という形で再び声に出して読む機会が設けられるようになりました。ただし、それはあくまで、文章の意味を正しく理解し、流暢に、そして感情を込めて読むための練習であり、「読み手自身の理解を深める手段」として位置づけられてきたものです。
ところが次第に、その内面的な営みである音読が、「聞き手に届けるための表現」へと転化していきました。そして、「正しく」「感情をこめて」読むことが重視されるうちに、いつの間にか、[棒読みの段階が「音読」、感情を込めて読めるようになれば「朗読」]というような位置づけが定着していったのでしょう。
たしかに「ただ読むのが音読、感情を込めて読めば朗読」と捉えるのは楽かもしれません。けれども、それでは、朗読の本質を捉えることはできません。読み上げるという行為は、それが表現としてどれほど魅力的であっても「創意工夫した音読」であり、言葉の生成に立ち会い「語り手の体験に迫ろうとする朗読」とは、本質的に異なるものなのです。
音読は、今の自分の理解の範囲内にとどまります。しかし文学作品には、まだ自分には理解できない、未知の世界がたくさん詰まっています。だからこそ、語り手の体験を推察し、それを試みるという、新しい読書法が必要なのではないでしょうか。そして、それこそが、存在意義を持つ「朗読」なのだと思います。
学ぶとは、読む前と後で脳が変わること。朗読は、まさにその変化を引き起こす手段です。そしてそれは、「この言葉に感情をこめるべきかどうかすら、まだわからない」状態から出発し、語り手の体験に少しずつ近づいていくというワクワクする営みです。
発見に満ちた、心弾む時間が待っています。朗読のたのしさをご一緒しませんか?
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