“文学作品の朗読”で脳育♪

いつもブログをお読みくださってありがとうございます!今日も“文学作品の朗読”を愉しんでいらっしゃいますか?声を伴う伴わないにかかわらず、〈語り手〉の体験と同じ体験を試みていれば…それは文学作品の朗読だと考えましょう♪
脳を育てるには、文学作品の朗読がいいですよ〜と、日々ワクワクしながら発信しています(^^)
「文学作品の朗読は、〈語り手〉の体験と同じ体験を試みる行為です。体験とともに、自分から、言葉が生まれますよね。言葉が生まれるときに、音声もついてきますよ」と、レッスンを重ねています。だんだん「声を出して音声表現しよう」とするのではなく、「〈語り手〉の体験と同じ体験を試みよう」として、真摯に〈語り手〉理解に取り組むかたが増えてきました。他者の言葉を大切に受け取る姿勢は素敵ですね…とてもうれしい!
【上演台本などの言葉】は、朗読者が音声を与えて完成させます。すなわち音声表現します。しかし❗️【文学作品の言葉】は違います。音声表現するものではありません。もう完成している言葉ですから、すでに音声を持っています。わたしたちは、〈語り手〉の語る音声を知りたいのですね!その音声と出逢いたいといってもいい。
さて。ここから本題です。文学作品の言葉は、“いまの脳”で理解できるものではありません。だからこそ、文に学ぶ“文学作品”と呼んでいます。わたしたちは、文学作品の朗読を通して、学ぶのです。学ぶとは、いまの脳を変えること❗️言い換えると、脳を育てること。思い出してください。脳は、なんと100歳になっても育つのでしたね(^^♪
「どのような音声を与えようかな?」「どのようなイントネーションにしようかな?」「どのような間を取ろうかな?」「どのような緩急をつけようかな?」これらはすべて、いまの脳で処理しようとする行為です。いまの脳では無理なのでしたね。どんなに優れたひとであっても、文学作品の言葉に音声を与えることはできません。なにしろ他者の言葉なのですから。
文学作品の朗読を通して、わたしたちは、他者である〈語り手〉の体験を探り、同じ体験を試みます。この試みは、わたしたちにとって、(他者体験と呼べばいいのでしょうか…)新しい体験です。新しい体験をすると脳は育ちます❗️新しい体験とともに他者の言葉を自分のものにしていく過程は、子どもが言葉を覚えていく過程と似ているのかもしれませんね。
わたしたちは文学作品の朗読を通して、他者の体験(知覚だったり思考だったり行動だったり…)は簡単にはわからない、という事実を知ります。だから、時間とエネルギーをかけてわかろうとします。探究心と情熱を持って左脳と右脳を意識的に使うことで、たとえ他者の体験であっても少しずつわかるようになっていく、という事実を知り…感動します(^^)
ワクワクしながら脳育を愉しめて、とても幸せです。皆さま、いつも熱心にごいっしょくださって心よりありがとうございます!
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