☆ 文学作品の朗読会は、体験を愉しむ場♫

文学作品の朗読会は、各人の体験を響きあわせるとても愉しみな時間です(^^♪
現実世界に響く「音声」に耳を向けると、わたしたちは、その音声を評価したくなるのでしょう。「じょうず」とか「好き」とか「いい声に魅了された」とか…。そうではなくて、音声の向こうにある「個々人の体験」にこころを向けていただきたいのです。そうすると、朗読は、音声を評価するものではなくなりますね!
文学作品の朗読は、アナウンスやナレーション、もしくは上演される朗読劇のように、評価するものでも、評価されるものでもありません。「表現」ではなくて、「体験」だから。
文学作品は、体験して理解を深めるもの。そして、学びを得るものです。アナウンス原稿のように情報を伝達するものでも、ナレーション原稿や上演台本のように解釈して表現するものでもありません。
具体的に、取り組みのお願いをしておきますね♪
朗読発表者は、文学作品に並ぶ一つひとつの語りを目で見たら(=左脳で受け取ったら)、そのまま声を出すことをしないでくださいね。
とにもかくにも、立ち止まってください。
そして、たとえば森絵都さんの『こりす物語』ならば…
すっかり〈語り手〉の“もこさん”(←呼び名を付けさせてもらいました)の身体と脳になる/すっかり“こりす”の身体と脳になる/すっかり“女のひと”の身体と脳になる
という手続きを踏んで、言葉が生まれる体験をしてください。言葉はわたしたちから生まれてきてくれます(もこさんも、こりすも、女のひとも、文字を見ていませんものね)。
まずは、たっぷり時間とエネルギーをかけて、もこさんやこりすや女のひとを、理解しようとしてあげてください。森のなかで、もこさんと同じ体験/こりすちゃんと同じ体験ができたときは、本当に楽しいですよ〜!自分から出てる音声なんて、きっと、もうどうでもよくなっちゃうと思いますよ〜!そのような文学体験を、皆さまに愉しんでいただきたいと願っています(^^♪
文学作品の朗読会が、「わたし」という意識を手放す場になるといいですね。会場に集うみんなは、「わたし」の音声表現を聴くひとたちではなくて、いっしょに体験する仲間です。『文学作品の朗読』は、そういう場を創造することができると思っています(^^)
文学作品の朗読会当日は、リラックスして、森や、女のひとの大きな大きなお部屋での体験を、ただただ愉しめますように☆彡
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