台本にするの、やめてね☆

小説や詩は、すでに完成した作品です。わたしたちが音声を与えることによって完成する、いわゆる「音声表現の台本」ではありません。音声を与えようとか、声で表現しようとかするのではなく、文学体験ができるといいですね(^^)
ところで。AIによる「朗読家」の概要をご存知でしょうか。現時点では以下のようにまとめられています↓
【朗読家は、詩歌や文章などの作品を読み上げ、鑑賞や批評を行う人のことを指します。朗読には、読み手の解釈や感情が加味されることで、聴き手の五感を刺激し、新たな想像の世界を創り出す魅力があります。…】
なるほどと思いますか?誤解が生まれないでしょうか。わたしは、「読み上げ」るという言い回しから、文字を見ている姿を思い浮かべてしまいます。朗読家は、文字を見てはいません。文字の向こうに作品世界を見ています。語り手と同じものを見ようとしています。
朗読家は、小説や詩の言葉が促すように「文学体験」をしているのです。音声は、体験とともに生まれる言葉についてきています。文字を読み上げているのでもなければ、言葉をどのように表現しようかと考えて声を出しているのでもありません。
AI概要にある「聴き手」という言葉も誤解を招きそうです。「五感」に「刺激」を受けて「新たな想像の世界を創り出す」ことのできる聴き手は、音声で作品を受け取ろうとする(一般的に思われているような)聴き手ではありません。自分自身で作品世界を存分に体験した朗読者が、聴き手となった場合に、さらに豊かな体験の可能性は訪れるのでしょう。
小説や詩は「文字で」受け取るもの。文字で受け取るというのは、時間をかけるということです。立ちどまり、思いを巡らせ、行きつ戻りつし、思考を重ねる…そのように読むことを求められます。なぜなら、語り手が(読者とともに)創ろうとする虚構の作品世界が、それほど豊かで奥深いから。
(小説や詩の)語り手は、言葉を、音声で聴き手に届けようとしてはいませんよ。朗読は、語り芸のように、現実世界のなかに虚構世界をつくり出し、現実世界にいる聴き手に手渡すものではないのです。音声で届けることも受け取ることもできない小説や詩は、音声表現の台本にするのではくて、文学体験の悦びに感謝して朗読しましょうね(^^♪
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