朗読の本質

朗読という行為は、明治時代に一度死にました。そして、生まれ変わった状態で、今ここに存在しています。
かつての朗読、つまり明治時代に死んだ朗読は、文学作品を声を出して読む行為であり、聴き手に伝えるための表現でした。しかし、小説の誕生によって文学作品そのものが変化し、朗読はその役割を終えたのです。
文学は、出来事を語るものから人間の思考や感情を掘り下げるものへと進化しました。伝達の言葉ではなく、思考の言葉が重視されるようになった結果、音声で聴き手に伝える手段としての朗読は衰退し、声を出さない「黙読」が定着しました。
ところが、黙読ではどのように読めばよいかを子どもたちに教えられないという問題が生じました。そこで、教育の場では再び声を出して読む「音読」が生まれました。そして、「ただ声を出して読むのが音読、創意工夫して読むのが朗読」という誤解が広まりました。しかし、創意工夫して読むのは朗読ではなく、「創意工夫した音読」に過ぎません。
小説の誕生によって一度死んだ朗読が、生まれ変わるためには、新しい意味を持つ必要がありました。それが、「語り手の体験と同じ体験を試みる行為としての朗読」です。語り手の言葉を手がかりに、その言葉がどのように生まれたのかを探り、自分の身体を使って、言葉が生まれる体験を試みます。声を出すという意識は持ちません。音声は、言葉が生まれるのに伴って自然についてきます。
その音声を手がかりにして、聴き手は、朗読者がどのような体験をしているのかを推察します。ただし、推察するには、聴き手自身も朗読者(語り手の追体験を試みている読者)であることが必要条件です。聴き手は、音声を手がかりに推察したことをフィードバックします。語り手に対する理解がさらに深まる話し合いを愉しみましょう。
朗読の最大の魅力は、「皆で読む」ことなのかもしれません。他の朗読者の語り手追体験にふれて、皆で意見を交わし合い、ともに作品を読み深めていくことができる。だからこそ、新しく生まれ変わった朗読は、(黙読を超えて)文学作品を豊かに享受する読書形態となり得るのでしょう。
あらためて確認しておきます。朗読は、音声で伝達する行為ではありません。ゆっくり時間をかけて、語り手と仲良くなっていくための手段です。語り手と同じ世界を生き、同じ言葉が生まれる瞬間を共有すること。それこそが、生まれ変わった朗読の本質なのです。
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