序文推敲しました♪
- marikoroudoku
- 3月15日
- 読了時間: 4分

たくさんの方が、前回のブログ『新しい朗読ー語り手の体験を生きる読書法』【序文】をお読みくださいました。ありがとうございます!感謝感激です(^^)
さらに目的を明確にしたらいいのではと、恩師や親友からアドバイスをもらって、推敲しました。(一応(注)もつけました)
新・序文です。ご一読いただけるとうれしいです(^^♪
新しい朗読ー語り手の体験を生きる読書法
【序文】
かつて朗読とは、声を出して読むことであり、それによって物語を伝える行為だった。現在でも、「朗読は声を出して読む行為」「創意工夫して音声表現する行為」ととらえているひとが多い。そのことは、身に沁みて知っている。しかし、あえて過去形にした。それには理由がある。
日本では明治時代の半ば、小説という新しい文学ジャンルが誕生した。それは、作者によって虚構世界内に設定された明確な「語り手」が、物語を語り進めるというものである。
小説の誕生に伴い、文学の言葉は、単なる伝達の道具から、「語り手」の体験を伴うものへと変化した。文学作品の読者は、奥深い虚構世界に入り込むことを求められるようになった。音声で安易に虚構世界を受け取れなくなった。そして朗読は、声による伝達と表現の手段という役割を終えた。声を出して読むという行為自体も次第に減り、読書シーンにおける朗読は姿を消していった。
朗読が衰退した後、文学作品の読書シーンでは、黙読が主流となった。黙読だと、読者が自分のペースで、語り手の言葉とじっくり向き合える。当時は、進化した文学に最良の読書法だと思われたのかもしれない。(注)
たしかに虚構世界に入り込むためには黙読は有効だ。だが、脳内での体験に留まることで、語り手の身体的・感覚的な側面に触れる機会が限られる。その結果、語り手との距離が縮まりにくいという課題はないだろうか。また、他の読者との開かれた対話を欠くことが多い。その結果、個人の知識や経験に閉じこもる構造を持っているといえないだろうか。
語り手にさらに迫り、虚構の作品世界を豊かに享受できる読書法がある。(頭だけではなく)身体も使って語り手と繋がる可能性を見い出す読書法、他の読者とともに作品世界を共有し、その受容を深める読書法として、「新しい朗読」を提案したい。
「新しい朗読」では、言葉とともに声も自然に生まれる。もはや、声を出して読む「かつての朗読」ではない。
「新しい朗読」では、声は自然に生まれ、コントロールを超えた音声が表出する。表出した自分の音声に、驚くこともある。納得し感心することもある。もはや、創意工夫して音声表現する「かつての朗読」ではない。
文学が進化したのに合わせて、朗読も進化し、「新しい朗読」が生まれた。この朗読の魅力を、文章を読んでくださるかたに、全力で伝えたいと思う。これまでの読書に「新しい朗読」を取り入れると、虚構世界の旅を愉しめる。朗読会で、あなたとこの旅をともに愉しめたなら…最高にうれしい!
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(注)マングェル(『読書の歴史』)が論じたように、かつて読書はもっぱら声を出して読む「朗読」によって行われていた。 しかし、カヴァッロ & シャルチエ(『読むことの歴史』)によれば、12世紀以降、単語間のスペース(分かち書き)の普及により声を出さずに読む「黙読」が次第に広まり、15世紀の印刷技術の発展によってその流れが一層促進された。こうした技術革新の結果、個人が声を出さず静かに本を読む黙読文化が定着し、朗読を中心とした読書形態は次第に影を潜めていった。その流れの中で、物語を個人的に享受する読書形態が確立し、近代小説という文学形式が成立する素地が生まれたと考えられる。日本では、この変化が明治初期に急激に進んだ。前田愛(『近代読者の成立』)によれば、明治期にはそれまでの対面的・音声的な読書形態から、個人が文字を黙読する「近代読者」への転換が生じた。特に新聞小説や翻訳小説の普及が、黙読の一般化を促したと指摘されている。 こうした流れの中で、近代小説の誕生とともに、「朗読を中心とした語りの文化」から「黙読を中心とした読む文化」へと急速に移行したといえる。
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